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小椋式彫金術

エンジェルリング
06 /30 2020
Vol.001

アレは、確か?高校生の頃だったかも?父親の親友で神戸で宝石商を営む人がおりまして、大手とまでは、言えませんが、年商換算で、数十億円の売上げを誇る人だった訳で、その人が中華料理をご馳走してくれる、みたいな運びと成り、家族3人で、出かけました。

で、その人の家に到着すると玄関に大きな象牙の彫刻が有りまして、よくよく見たら三蔵法師一行が天竺へ向かう様をかなり大きな象牙に彫りこんで有りまして、「おじさん、コレ何?」と聞くと、「ボク(※父親の友人関連は、俺の事をボクと呼ぶ、中年に成っても(笑))、コレはね、大阪の万国博覧会で、中国館に展示されていたモノでね、大体、3.000万円位するんだよ。」って、玄関開けたら、いきなり3.000万!って、その時点で、俺の頭の中が吹き飛んだ訳です。

でね。その後に食事会とあい成りましたが、総勢で、20名位おりまして、その内訳は、置いて於いて、結構な要人達の集いでしたけど…、その人ってば、毎晩そんな晩飯会を開催しているみたいな事でしたけど…、当時の俺の印象として、「宝石商って、なんぼ程に儲かるのか?」でした(笑)。

んで、その後に、その人のお宅に戻って、大人連中は、マージャンとかに打ち興じている時に、その人が書斎に俺を呼んで、「ボク、コレが、なんとかの星だよ!」って、名前忘れましたけど、鳩の卵大位のダイヤモンドを見せられた訳で(汗)、その時には、それが、何十億単位の宝石だとは、知りませんでしたけど…、何か凄いよね。的な。。

そして時は流れて、俺が22歳に成りかけた時に、父親が独立開業して、そのお陰で、アメリカに留学させて頂いた時に、何となくテキサスに有ったカレッジ内のジュエリースクール(学科)に入学を申し込んだ訳ですが、その後に世界的に有名な、GIA へと進み、その頃に、そのお人が、「ボク、君の作ったジュエリーを、おじさんが、1.000万円でも、2.000万円でも値を付けて、数え切れない位にいくらでも売ってあげるから、取りあえずは、アメリカから帰国したら、イタリアに渡って、どんな小さな賞でも良いから現地イタリアで、ジュエリーデザインの賞を取りなさい。」って、なんなん?

そして、運命の1987年、4年間のジュエリー留学を終えて、そろそろ帰国の準備でもするか?と思っていた矢先に珍しく母親からの国際電話が有りまして、「どしたの?」と聞いたら、「あの人の会社が倒産したで!」って、そっからですね、俺のジュエラーライフが大きく軌道修正されたのは(笑)、ですが…、個人的には、気が楽に成ったと言うか?自分が、そんな大したモンじゃねーとの認識からですが、北野の事は、夢乃また夢っすね。的な~。あはは。。(^^♪

Vol.002

でね。その後に帰国して、大阪のとある宝石卸の会社に入社した俺ですが、その会社の工房と言うよりも所謂、加工場に案内されて、吃驚した訳で、何故ならば、キャスト関連の器械が見当たらなかったからで、その当時のアメリカでは、様々な方法で作られた原型を元に型を取って、キャストして、仕上げる作り方が主流だったからですが、当時の日本にも甲府や関東方面に関西の一部には、ジュエリーの量産工場も有りましたが、僕の勤めていた南船場界隈には、キャスト屋さんすら無くて、多くの高額商品は、手作りにて、作られていたと・・・

で、おもむろに、「こりゃーえらい所へ迷い込んだな。」と思った訳で、一応、アメリカの学校で、ファブリケーション(※米語で手作りの意味)の基本的な事は、学んで来ましたが、俺が知っているのは、ゴールド系のそれで、それに対して、当時の日本では、プラチナが主流で、同じ貴金属と行っても似た部分も有りますが、その特性が大きく異なり、アメリカの学校でも、一つだけプラチナの石枠を作る課題が有りましたが、そんなのじゃ全然おっつかないみたいな事で、其処から取引先の職人さん達や昵懇に成った工具屋の社長から、様々な情報を聞き出したりも有りまして、何故ならば、俺の勤め先にいた先輩職人さんは、台湾の方で、日本語でのコミュニケーションが不得意みたいな事と、台湾では、どうやら将来のライバルに成る可能性の有る人間は、育てないみたいなポリシーも有るらしく、殆ど、技術を教わる事も無く、文字通り見て覚えた(※技を盗んだ)みたいな世界でした。よ。あはは。。(^^♪

Vol.003

でね。帰国してから入社した宝石卸(※エメラルド・メイン)の会社は、ちょっと変わってまして、具体的な事は、割愛しますが、兎に角よく売り上げるとの評判で、社長も商売上手な、やり手だった。みたいな意味ですが、それと同時に競馬とかのギャンブル好きで、時代は、バブル期前夜みたいな事で、日本の経済は、右肩上がりな状況で、卸屋に付属している加工場と言っても、その仕事量は、それなりに有りまして、しかも台湾人の先輩職人は、数ヶ月に一ヶ月程、台湾に里帰りするみたいな状況も有りまして、入社して、一年程度で、部下も出来て、その部下に教えながら、サイズ直しや修理に石留めと言った加工系の仕事をメインに、時間の許す限りで、手作りの一点モノも作りつつ、多忙な毎日を送っておりました。よ。。

で、入社して、半年位は、日米のジュエリー格差に戸惑って、「会社を辞めたい。辞めたい。今すぐに辞めたい。」が口癖だった俺ですが(笑)、郷に入れば、なんとやらで、一年も経過すれば、すっかり馴染んで、仕事自体は、面白かった事も有り、逆に若手の筆頭株みたいな存在にも成り、徐々に周辺の取引先からも、「○○宝石には、GIA 卒の職人が…。」みたく、南船場界隈の一部では、それなりに名前も売れて来て、ですが…、その矢先に、多分、入社後、二年半で、社長が突然に夜逃げして、会社は、事実上の倒産、多額の負債を抱えて、営業部長とかは、針のむしろ状態に成りまして(汗)、俺は、加工場やったから、お咎め無しみたいな事に成りまして、「さあどうしたモンか?」と思いましたけど、まったく心配も無くて、何故ならば、既にバブルは、始まっていた訳で、そう、あの、「何を作っても売れる。」時代で、その当時には、仕事が減ったり、無く成るなんて、まったくイメージ無くて、会社倒産後も各方面から就職のオファーが有りまして、最終的には、10社位から誘われた。みたいな事でしたけど、その話は、また次の機会に、っす。。(^^♪

Vol.004

一旦、時空列を離れて、俺が彫金教室を始めた後の話と成りますが、一般の方には、イメージ付きにくいと思えますが、この手の教室の最大の敵は、時間な訳で、簡単に説明すると…、専門学校で、1週間に30時間とかを掛けて、お勉強する事を、うちの場合だと、3時間半で…、みたいな事でして、って、コレを聞いて、「そんなの不可能だよ!」とお思いの貴兄。その不可能を可能とするのが小椋式彫金術な訳で、つまり俺の彫金術と言うのは、限られた時間しか存在しないと言う、とてつもない制約や縛りから生まれた術式と言う訳ですね。ええ。。

と言う訳で、その内訳をざくっと説明すると生徒さん本人がネットや本から後に得られる学術的知識や数値的なモノを、ざっくりと全部省いてまして、もちろん教室内での雑談にて、それでもコレだけは、必要だね。と思う事に関しては、伝授しておりますが、そんな感じで、更に一つの課題に複数のテーマを持たせて、尚且つ、その中に反復訓練を織り込んで、端的に技への訓練をするのじゃ無くて、術(すべ)を、お教えするみたいな事です。

ではでは、術とは、なんぞや?と成りますが、例えば、柔道の投げ技には、背負い投げや巴投げみたく、様々な投げの技が有ると思えるのですが、それらを個々に使用すると、その技の持つルールの中でしか投げられない事に成りますが、小椋式では、「投げる術(すべ)を、お教えする。」みたいな事でして、つまり生徒さん達に端的に投げると言うノウハウを伝授する事により、後に生徒さんは、どんな種類の投げ技にも対応出来る。みたいな事でして、技と違って、術式つーのは、融通無碍な存在やと、俺は、考えております。よ。。(^^♪

Vol.005

因みに、ですが…、小椋式には、2系統有りまして、その内訳は、アナログとデジタルの術式に別れるみたいな意味で、この二つは、密接な関係には、有りますが、その両方を組み合わせて使いこなすには、中々に難しい難行と成っておりまして、奥へ進めば進む程に道は細く険しく断崖絶壁を越えて、それでもゴールは彼方に…、みたいな事ですが、簡単に説明すると、二兎を追う者は一兎も得ず。

でね。それら各々の小椋式にも更に2種類のバージョンが有りまして、それは、教える側と教わる側でして、教える側に要求されるのは、術式のマスターは、当然ながら、それを相手さんに伝えるコミュニケーション能力が重要でして、中々、後継者にも恵まれなかった手作り職人時代でしたが、教室を始めて、現在、アトリエL を主催している、エルと出会いまして、そう、彼女こそが、(エルだけにデジタルも使エルけど…(オイ!))アナログ系統の教える小椋式の正統な継承者な訳ですが、そんな人材が、一人でも居てくれて、良かった。っす。。

アトリエL +神戸へのリンク

でもって、そう成って来ると、デジタル系にも後継者を…、と成るのが人情ですが(笑)、先ずアナログの術式を紐解いて行くと、材料の寸法出しに始まって、加熱する、切る、削る、曲げる、接続する、仕上げる、磨く、留める。と言った基本動作の組み合わせみたいな事に成りますが、それをデジタルに置き換えて、考えると複数のソフトを使い分けれる術式と成りまして、教える系のデジタル使いに要求されるのは、どんなソフトが目の前に登場しても、ニコニコと笑って動じず、物怖じしない性格と言うか?物事に無頓着と言うか?一種、能天気な天然素材みたいな事ですが(オイ!)、そんな人材、俺以外にも他に、おるの、かしら、ましらっす。あはは。。(^^♪

Vol.006

閑話休題。

そう、アレこそが正に狂乱のバブル期、株価や土地の価格が急騰し、貴金属やダイヤをあしらったジュエリーウオッチや超高額なジュエリーが飛ぶ様に売れ!仕事は、山の様に有り、加工しても加工しても毎日新しい仕事が舞い込む始末で、突拍子も無いオーダーが入って、「こんなの納品出来るのか?」と心配してもノープロブレムだったり(笑)、気が付けば、帯の付いた札束の入ったバックが俺の目の前を右へ左へ毎日移動するみたいな光景を目の当たりにして、して…、俺は、金には、目もくれず(オイ!)もくもくと自分のスキルを上げる作業と後々に役立つはずの人脈やコネクション作りに勤しんでおりました(本当!)。

でね。当時の俺の給料って、手取りで、20万も無かった訳ですが、それもまったく意に介さずに会社の倒産後に移った次の会社では、企画製造部と言うご大層な名前の付いた部門の職長に任命され、その時は、朝一番に加工場に入って、夜一番遅くに加工場を後にする毎日で、その当時の俺ってば、兎に角欲しいのは、スキルと経験値で、その次に商品知識とコネクションみたいな感じで、なして世間様と同じ様にバブルで踊らなかったと問えば、やはり、アメリカ的な考え方を持っていたからで、「会社に一生いる事は無い。会社は、自分の知識や経験を増やして、スキルを上げる場所。次に備えて通うスポーツジムにしか過ぎない。」でして(笑)、今から思えば、可愛げの無いガキだったとも思えますが、その考え方って、強ち間違って無かったと今でも思います。よ。あはは。。(^^♪

Vol.007

「あの頃、僕は~♪、馬鹿(若)かった~♪」って、唐突ですが…、20代後半の俺てば、超の付く位の野心家で、上昇意欲の権化みたいな存在だった訳で、そんな俺が、先ず着手したのが、自らが職長を務める企画製造部の面接官に成り(オイ!)、延べ、200人以上を面接し、その中から将来の自分の腹心の部下、つまり親衛隊みたいなのをチョイスして、育成って、他人様の立ち上げた会社を使って、よーやるは(笑)、とも思いますが、誰が何の為に薄給で、働いているのか?それは、スキルアップを兼ねた立場を利用しての役得も目的で、自分の思うがままのワールドを構築する為やった訳ですが、その時に配下に成った当時の部下達は、後に独立した時の部下や周辺で協力してくれる仲間に成った。みたいな事でして、何事に於いても先手必勝っす。。

んで、そんな有る日の事、部下の数も五人に増えて、純益ベースで、毎月、100万円越え、みたいな実績も有り、それを背景に社長に具申した訳で、「社長!安価なキャスト関連の機器(※と言っても全部で、60万位。)を導入すれば、18金の製品とか?パーツを量産出来るので、更に、儲かりまっせ♪」って、すると社長は、ダボハゼ(※川魚の一種)の様に喰らい付いて来た訳で(笑)、だがしかし、その一言が命取り、後々に大いなる災いを来たす事と成るのですが、その話に関しては、こうご期待!っす。あはは。。(^^♪

Vol.008

その当時、南船場に有る雑居ビルの一室に加工場が有りまして、人員的、設備的にも、部屋一杯みたいな状況で、其処へキャストの機械を入れたら、もはや、何も増やせない感じに成りましたが、キャストは、アメリカで、鍛えられまくったジャンルなので、お手の物、みたいな事でして、バブルで、仕事は、際限無く有りまして、毎日夜の8時とかまで働いていましたが、その三年弱で、通常の10年分位の経験値を得たみたいな事でも有りまして、俺的には、「トップを目指すには、まずまずの滑り出しだな。」とご満悦でした。が・・・

そんなある日に社長が、加工場を訪れて、おもむろに、「小椋君、どうや?本格的なキャストの機器を導入して、キャスト工場を立ち上げないか?いや、立ち上げたいんだけど…。」と逆具申されたみたいな事でして、とっさに、「社長、ソレは、無理っす。止めた方が良いと俺は、思いまっす。よ。。」と意見したのですが、どうもね。金もった兵隊には、勝てない論理が働きまして、その当時の社長にしてみたら、「何だよ、たったの、3.000万で、キャスト工場作れるんだ、安っす!」みたいな感覚で(笑)、なんせ会社を立ち上げた初年度の粗利だけでも何億円も叩いたみたいな状況で、その程度の設備投資なんて、車を買い換える程度の事やった訳で、反対する俺を押し切る形で、そのプロジェクトは、スタートした。みたいな事ですね。ええ。。

ではでは、何ゆえに俺が反対したのか?それは、歴史と言うか?過去の事例を紐解いた結果でして、例えば、営業系のガンガン売る会社が思う事として、「自社で、製品が作れたらな。」つーのが有りまして、だがしかし、関西で、それに成功した会社って、実は、皆無やったみたいな事で、何故ならば、仕入れて売るのがメインの会社の内外に、そんな人材も無く、一種の業種転換にも成る。つまり失敗する。つーのが、俺には、見えてまして、俺だって、卸屋付属(※基本的に赤字でも無問題)の小規模な加工場の運営なら出来ますけど、それなりの規模の工場とも成れば、人員の確保や品質管理に大量の地金(K18&Pt900)の在庫にと、まったく勝手が違う世界なのと、今よりも広い場所に引っ越して、家賃も上がり、人員が増えたら人件費や経費も増大し、しかも数千万円の設備投資の減価償却を考慮に入れると、と…、とてもじゃ無いけど、その工場単体での黒字が見込めないつー計算も有った次第ですが、事態は、俺の思惑を超えて、どんどん進んで行きましたとさ(※完全に開き直って、人事風~。)みたいな。。(^^♪

Vol.009

で、道中色々と有りましたけど…、南船場から徒歩10分位の所へ引っ越しまして、人員も十数名に増えて、設備も導入され、ま、その導入を巡って、会社サイドと俺側の思惑の違いみたいな事が表面化しまして、それが後々の遺恨って、コレばっかりですが(笑)、その会社を始めたスターティングメンバーって、社長を入れても5人だったのが、本社からテコ入れで上役が投入されたり、人員も増えたりで、そう成って来ると纏まる話も纏まらなく成るつーが、世の習いですが、ま、そう言う事っす。。

そして、大型のキャストの機器も稼働を始めまして、一応分業制も形に成り、「さあ、何を作るのか?」と成った時に、社長が、「コレ作れるか?」と持ってきたのが、バリの香港モンの18金のベルトバックルで(笑)、ダイヤやサファイア、ルビーが散りばめられた系でしたが、そんなに難しいアレじゃ無かったので、「作れますよ。」と言ったら、「コストは?」と聞かれて、「多分、15万~20万の間位やと思います。よ。。」と返したら、「なにー!コレな仕入れたら30万位するねん!そんなに安く成るんやったら是非に作ってくれ。」みたいな事と成り、早速、バックルの原型を12型位作って、キャスト出来る体制を整えて、それらの量産を開始したら…、たら…、売れるわ!売れる!!なんぼでも売れる!みたいな状況と成りまして、一月の粗利が、¥400万とか?空前絶後のヒット作みたいな話と成りましたが、俺的には、「何か潮目やな。そろそろココとも、おさらばするか?」と内心思ってまして、腹心の部下の一人が、寿退社したタイミングで、俺も同時期に辞めた次第ですが、なんぼ程に会社組織の本質が利益の追求としても会社(上層部)との信頼関係が崩れた以上、長居は、無用みたいなノリでした。ね。ええ。。(^^♪

Vol.010

えーーっと。最近に成って、この小椋式彫金術って、世間の需要有るのかね?と疑問に思い始めておりまして(笑)、ですが…、まあ後に成って、自分で読み返して、楽しむとかも?アリなんで、そんな事は、気にしない!っす。あはは。。

でね。会社を退社した俺は、「はてさて、この先どうしようか?」と思っていたのですが、同じ大阪でも違う区に有る、結構大きな○○製作所と言う所から工具屋さんを通じて、オファーが有りまして、その内訳は、「その製作所には、仕事の出来る若い子達(※何でも地方から出て来て夜学に通っているとか…)が何人もいるけど、今まで在籍した職長が辞めてしまい纏まりが無いのが問題で実務とか?一切しなくても良いから、そんな彼らを率いるリーダーに成って欲しい。」との事でして、給料的にも年収で、って、その時の俺の年収は、既に500万円程度に成っておりましたが、同等出すみたいな条件でしたが、「夜学の苦学生?めんどくさ!(オイ!)。。」とか思っていたけど、間に入った工具屋さんが、グイグイ押して来る系で、どうしたモンかと思っていたら、南船場に自社ビルを構える某社の社長が、うちの父親の元同僚の税理士を通して、コレまた破格の条件で、是非!うちに!!みたいな事やったけど、「俺、あの社長、ちょっと苦手なんだよな。。」でした(笑)。

で、そうこうしている間に別の工具屋と言うよりもキャスト関連機器の会社から、「今度、神戸のショップ・ブランドが、新規でキャスト工場を立ち上げるんだけど、其処に在籍している手作り職人さん達は、キャストの事まったく分からないから指導員として、働いて欲しい。」と言われて、大阪(南船場)にもちょっと飽きて来ていた俺は、「久々の神戸か?なんだか面白そうな仕事やし、一丁やったるか!?」と思いまして、基本的に前職の年収に合わせる条件で、神戸のど真ん中に位置する工房兼キャスト工場で、働く事と成りました。よ。。(^^♪

Vol.011

と言う訳で、大阪(南船場界隈)から神戸に流れ着いた訳で、そんな俺を待っていたのは、購入して転売したら億単位の利益が出ると目論んで買った土地家屋が、バブルが弾けて、にっちもさっちもに陥った一軒家内に有る、やたらと大きな床面積のキャスト工場兼加工場でして、其処には、三名の職人さん達と一人の女性バイトが、おられまして、まあ、その辺りの下りは、割愛させて頂きますが、自分が、思った以上に作りの仕事をさせられた。みたいな事で、当時の俺は、「はー。めんどくさ(オイ!)。」と思ってまして、何故ならば、その当時の俺の目標は、単なる一職人じゃ無くて、何れは、起業して、経営者に成る。つーのが、有りまして、まあ、その為には、職人仕事も有る程度にマスターしてないと、って、例えば、職人さんが反論してくる時に言葉には、出さなくても、「だったら、てめえが作ってみろや!」つーのが、有りまして(本当!)、つまり、経営者サイド(使う側)が作りの事を理解して無かったり、まったく何も出来ない状態では、職人さん達に舐められる。みたいな意味合いで、ですが…、俺の場合だと、「じゃあ、俺が作るから、君は、もう帰って、いいよ(ハート)。」みたいに返せるのが、基本的にヘンコ(変人で頑固者)、の集団でも有る職人さん達を意のままに使える、一つの術(すべ)だった。みたいな意味でして、「職人仕事は、バブル期のお陰で、もう、お腹一杯なんすけど…。」的な~♪

でね。何だかんだで、一ヶ月程が経過した時に、どうしても我慢出来ない状況を感じた訳で、その頃の俺は、指導員の立場を良い事に我が物顔で、加工場を蹂躙してまして(オイ!)、おもむろに、「ハイ!皆さん聞いて、ください!本日より、ラジオは、AM から、FMに変わります。よ~♪」って、その当時の加工場では、朝一から、「ありがとう浜村順です!」に始まって、「月亭八方で、おま!」更には、「隅から隅まで、角淳一!」を延々と聞かされた俺が、ついに切れた!みたいな事ですが、朝の10時に成ると、FM に切り替えまして(笑)、突然に、「オハヨウゴザイマース!パシフィック・オアイシス!カマサミ・コーーング!!」が軽快な音楽と共に始まった結果。どうにも、FM に馴染めない職人さん達は、音楽のリズムで、手元が狂って、集中も出来なく成り、一種のパニック症状を引き起こした。みたいな事でしたけど…、そんなの俺知らんがな。でして(オイ!)、だがしかし、俺も、其処まで鬼じゃ無い訳で、特別に、「隅から隅まで、角淳一!」だけを時間限定で、許可した。って、お前何様やねん!?とお思いの貴兄へ。最年長が当時50歳位だった年上の職人さん達を、まるで後輩を扱う様に牛耳っていた。俺様ですよ~。あはは。。(^^♪

追記:

因みに、雇われている職人さん達って、サラリーマンの一種でして、社長や経営陣に対しては、強気に出る事も出来なくて、どんなに偉そうにしている人でも、その会社内で役員にでも成らない限りは、弱い立場と言うか?まあ、一種の羊の群れ(失礼!)、みたいなモンでして、その羊さん達の集団に雇われている意識すら無い、一匹の狼(俺様)が、ほり込まれた。みたいな事で(笑)、まあ、どんなに頑張っても羊が狼より強い道理も無くて、ご愁傷様~♪。みたいな。。

Vol.012

「君が来てから、うちの加工場、無茶苦茶だよ!」

と、言う有り難い、お言葉を社長から頂ながら(笑)、無事にキャスト機器の指導員の職を全うした俺ですが…、「加工場が無茶苦茶に成ったのは、先にいた職長の後に入れた年長の職人を無理から職長の座に据えて、人間関係を悪化させた。あんたの采配(人事的な)ミスが生んだ無茶苦茶っしょ!?」と、思ったけど…、口に出さなかった大人な俺(笑)。。

で、その職場を去る前に前職の部下(※既に退社済み)に指令を出して、独立する為に必要な物件(賃貸)を探さしてまして、って、本当は、仕事量の多い大阪(南船場)に加工場を構えたかったんだけど…、色々と有りまして、神戸の高級住宅街に位置する駅近な物件に辿り付きまして、高校時代の友人に頼んで、比較的、リーズナブルに内装も、お願いして、工房付きのジュエリーショップを開店出来た訳で、「コレで、俺も(小さいけど…)一国一城の主だな。」と更なる野望が全開モードと成りましたけど…、その時に俺の取った戦術が、コレまたアレな作戦で、ショップが、オープンするやいなや、周辺や隣町に既に有った宝石店に電話しまくって、営業掛け捲った訳でして(笑)、いやね。神戸でも中心地とか?大阪(南船場)に行けば、それなりの数有る加工場ですが、徒歩圏内とか?隣の駅には、まったくと言って、良い程に存在しなくて、相手さんからしたら、利便性、最高ジャン!みたいな事で、俺の垂らした釣り針に掛かった獲物は、6軒も有り、それが後に16軒まで膨れ上がり、って、多分、一般の人には、理解出来ないと思えるけど同じ宝石やジュエリーを売る店が、言わば、ライバル店の仕事を請け負うって、かなりの異常事態でして、俺からしてみれば、「コレで、工賃も入るし相手さん(ライバル)の手の内が透けて見える。よ。ね。。」ですが(笑)、元々、南船場で、加工場を任されていた感覚で、攻めたら意外と簡単でしたー!

因みに何故に加工や修理に作りの仕事を他店に求めたのかと問えば、「ジュエリーショップ始めました、さあ!買ってください。」って、そんなの最初は、親戚とか?知人しか買ってくれない訳で、しかし、俺には、二人の従業員が、おりまして、最低限の必要経費を、その仕事で、賄う作戦で、それが結構、功を奏して、店の売上げも確保出来た一年半後に運命の日が訪れましたとさ・・・

続く。。(^^♪

Vol.013

で、店を始めてからの一年間は、売れたり売れなかったりも有りまして、それでも自分の手で、初めて、1ct up のダイヤを販売した時には、凄く嬉しくて(笑)、結構テンションが上がりまして、そんな想い出も有りますが、半年後位から、南船場時代に知り合った海外仕入れの得意な色石のバイヤーさんとタッグを組んで、積極的に、リフォーム&オーダーに取り組み出し、それも功を奏して、オーダーの場合は、先ず、何らかの宝石を、お客さんに購入して頂いて、後に、それをジュエリーに仕立てるタイムラグを利用した販売方法を体得しまして、ですが…、それって、お客さんにとっても、二回払いに成りますし、自分の余裕に合わせて、期間を空けてからの制作も可能なので、オーダーメイドの手法としては、結構、上手く機能していたと自分では、思います。

それ以外では、とある新聞に付属している月一のフリーペーパーに広告を打った所、思わぬ反響で、その後は、継続して、定期的に、其処へ広告宣伝費を投下した結果、かなり売上げも上がり、その年の年末に、「それなりの資金も稼げた。いよいよ我々は、この区を完全制圧するぞ!」的に年が空けたら、広範囲に、リフォーム&オーダー系のチラシを配布する予定で、準備に入りまして、その年を越して、「いよいよ明日(金曜日)と土日を挟んで、月曜日(※運命の日)にチラシを配布するから、その後は、忙しく成ると思えるので、各人心して!」とか言っていた記憶も有りますが、その週末の日曜日に丹波笹山に、ボタン鍋とかを食べに行って、うちの店は、月曜が定休日だったので、ゆっくりするつもりが、翌、月曜日の朝の5時頃に突然、「ドーン!ドーン!」と音がして、強烈な揺れに襲われた!みたいな事で、その時の俺は、まだ寝ぼけていて、でも身動きも取れない位の揺れで、ベッドの横の壁に頭をぶつけても回避すら出来なかった訳で、そう、その日こそが、阪神淡路大震災の日でして、後に分かった事ですが…、幸いにも店は、無事で、住居のマンションも修繕すれば、使えるレベルの被災でしたが、木造家屋の実家が倒壊して、其処に寝ていた両親の内、母親が、お亡くなりに成りまして、その数十分後に俺が実家に駆け付けて、生き埋めに成った父親の救出作業に参加しながら、瓦礫と化した実家を見て呆然とする俺が、おりまして、物凄く簡単に説明すると、その時には、既に自分の中で、何かが壊れていたのすら気が付かなくて、「折角のチラシが、無駄に成ったな~。」とか?当然に店とかは、後回しなので、見に行けて無くて、「俺の店は、どうなったのか?」みたいな事を考えていた様に覚えて、おりまする~。。(^^♪

Vol.014

で、震災以後の話は、被災者のそれと成りますので、大幅に割愛させて頂きますが、地震の後、一ヶ月とちょっとで、店を再開した訳ですが、店の前をリュックを背負った被災者の方々が駅へと向かう状況で、ジュエリーや宝石とか?売れる道理も無くて、其処から年末までの間は、業者さんの仕事で凌いでましたが、収支的には、当然に赤字でして、ですが…、その年の12月だけは、別で、何時も以上に売り上げたのは、顧客の皆さんも震災に疲れて、相当ストレスが貯まっていたからだと思いました。。

で、その頃の俺は、自分に起こった異変にも気が付かずに、黙々と仕事をこなしてまして、以前より余り笑わなく成った程度の変化しか感じて無かった。みたいな意味ですが…、その翌年の春位から商売も顧客さん達も戻って来て、順調に売上げを伸ばし、更に、その翌年には、過去最高の売上げを達成して、完全復帰を果たしたと思っていたのですが、その年に90歳を過ぎていた祖父母が、
お亡くなりに成りまして、その時には、母親程のショックは、受けなかったのですが、多分それがきっかけで、一種の人間不信みたいなのに陥りまして、精神的にも不安定に成り。更に人間関係も含めて、全ての事柄が嫌に成り、結果的に開店から5年で店を畳む事と成りました。

で、店を閉めた以降は、まったく別の仕事に就きまして、収入的にも悪く無かった当時の俺は、「もう、ジュエリーとは、関わりたく無い。」と思ってましたが、1年が経ち、2年目と成った時にふと、「また何かを作って、みたいな~。」と思った訳ですが、宝飾業界とは、離れた場所で、ジュエリーを作りたいと思ったので、色々と思案しながら、自宅マンションの一室に押し込んだ、加工関連の設備の配置や整備を始めまして、「元々、人様に、お教えするの得意だったし、彫金教室なら出来るのでは?」と思い立ち、その年の夏の終わりにオープンしたのが、彫金教室エンジェルリングの始まりと成りました。。

で、イザ!教室を始めたものの、今まで、プロの卵に教えた事は、有っても趣味がメインな生徒さん達に教える勝手が分からなくて、当初は、普通に部下に教えるみたいに教えていた訳ですが、折角入って来られた生徒さんが、余りのハードさに辞める辞めるで(笑)、3人入って来たら5人辞めるし、みたいな状況で、その時に、「どうやら教え方をデチューンしないと無理みたい。」と悟ったのと同時に前出のエルが入って来て、彼女は、やれば何でも出来る系の人だったと言うのも有りますが、そのエルに教えた道すがらが、エンジェルリングのカリキュラムに成った訳で、その後に始めて、「初心者の方にも分かり易い。」と言える様に成りましたとさ。。(^^♪

Vol.015

で、教室を始めた時の俺には、約2年のブランクが有りまして、「どんなモンかね?」と思って、いたのですが、生徒さんの前で実演する。みたいな時に、「意外と腕は、錆付いていないよ。ね。」と感じた訳で、手に職とは、良く言ったモノで、頭じゃ無くて、手の筋肉が作業工程を記憶しているみたいな事やと思うのですが、それに関しては、問題無くても、簡単に説明すれば、2年間止めたエンジンに火が入らない状況で、其処からモノ作りに復帰するのに何年も掛かった記憶が有るのですが、例えば、生徒さんの親御さんからの頼まれモノで有ったり、ショップ時代の顧客様からも単発で依頼が有ったりで、そっちの方も序々に感が戻りましたが、モノ作りに対する情熱みたいなモンは、全然戻らなくて、結構な時間を必要としましたが、教室の方は、一種のモノ作りブームみたいな事も有り、右肩上がりで急成長してまして、結構早い段階で、エルがアシスタントに成りまして、直ぐに講師に昇格して、二人掛りで、教えても週末とも成れば、当時、四つ有った加工机が満杯に成り最盛期には、生徒さんの数も今の四倍位おられまして、予約を断る事も結構有った様に記憶しております。。

でね。アメリカ時代に話は、少し戻りますが、当時、友人や知人宅で見かけた小さなマッキントッシュ(パソコン)や所属していた学校(GIA)でも、2D の、CAD で設計した課題用の石枠のベースみたいなのも見てまして、その時に、「何れは、ジュエリーもコンピューターで作る時代が来るのじゃ?」と思ってまして、震災後位から本格的にパソコンやグラフィック系のソフトの勉強を始め、教室が始まってからも、3D CG 系のソフトを少し勉強したりも有りましたが、「何か違うよね?」とも感じてまして、アレは、確か?2005年位に、「どうやら、3D CAD と言うソフトで立体物は、作るみたいやね。」と分かり、それと前後して、ジュエリーの工場で、ライノを使って、ジュエリーの原型を作っていた生徒さんが教室に参加されまして、色々と情報を聞き、そのライノセラスと言うソフトの体験版を使って、勉強を開始したのですが、何とも難解なソフトで、半年ほど取り組んだ結果、「俺には、無理なんじゃ?」と思い、一時勉強を中断したのですが、2006年位から教室に参加された別の生徒さんが、その年の末に、3DESIGN CAD と言う主にジュエリーを作る目的で開発された、CAD を購入されて、「先生!教えて!」って、そんなの俺触った事も無くて(笑)、どうしたモンかと思案した結果、当時の代理店の社長さんに相談したら、「教育機関用のアカデミー版が有りますので、それで勉強されたら?どうでしょうか?」みたいな流れに成りまして、その翌年から本格的に勉強を開始したのですが、そのソフトって、妙に肌に馴染むと言うか?そもそもライノセラスは、汎用性の高い、CAD でして、何でも作れるけど、別にジュエリー専用と言う訳でも無くて、ジュエリーを作るには、別に、それ専用のプラグイン(※お助けソフト)が無いと、みたいな事でしたけど、3DESIGN に関して言えば、当然にジュエリー関係者も開発に参加していた痕跡も有りまして、逆にジュエリー畑の俺には、開発者の意図みたいなモンが分かりやすかったのだと思いますが、そっからは、怒涛の勉強ラッシュで(笑)、寝食を惜しんで、そのソフトの探求に励んだ訳ですが、それが後に思わぬ結果を生むとは、当時の俺には、まったく窺い知る事は、出来ませんでしたとさ。。(^^♪

Vol.016

因みに、3DESIGN の勉強を始めると同時に、ブログを開設しまして、日々のモデリング画像を何点も添えて、毎日の様にアップした。みたいな事でして、その当時は、CAD を使って、仕事や金儲けをするなんて、意識もさらさら無くて、自分にとっての、CAD とは、自分の頭の中に有るイメージを具現化して、くれる言わば、ドラえもんのポケットみたいな存在だった訳で、兎に角楽しくて、面白くて、しかも、6年も7年も、燻っていた。モノ作りへの情熱が爆発した!みたいな事でして、しかも、その爆発は、単なるそれじゃ無くて、核爆発級で(笑)、瞬く間に、その(モノ作り系)ブログ内で、一位の座を獲得して、毎日結構な数の閲覧者さん達が見に来ていた。みたいな状況で、そんな事が半年も続いた頃に、カズミさんが教室を訪れまして、「3DESIGN を習いたい!」みたいな事で、同じ、GIA の卒業者でも有り、関西の宝飾業界で長年働いたキャリアも似ていて、直ぐに意気投合して、そっからは、二人掛りで、3DESIGN にディープインして行ったと言っても、あくまでも楽しみの範囲内と言うか?当時は、まだ、「やっぱ!ジュエリーは、手作りでしょ?」みたいな意識も強くて、CAD は、デザイン画の代わり程度の認識でしたが、その年の暮れが近づいた時に関西の工具屋さんを通じて、東京に有る関連機器のメーカーさんから打診が有りまして、「3DESIGN の販促の為にデータの作成を依頼したい。」との事でして、って、実は、そのメーカーさんとは、キャスト工場の時代に色々と、お付き合いも有りまして、顔見知りの社員さんも複数おられた関係上、お断りする理由も無くて、快諾した結果、結構な数のデータを作成して、それなりの工賃も頂いたのが、CAD で、お金を儲けた最初と成りまして、しかも、その年の暮れに、「来年の、IJT で、3DESIGN のセミナーを開催するから講師に成って欲しい。」との依頼が来て、その時に初めて、「何だか?俺の知らない所で、エライ事に成っているのでは?」と思った訳ですが、流れと言うか?何と言うか?そのまま一気に押し切られて、翌年の、IJT のブースに立つ事に成りました。

で、カズミさんと二人で、東京に出向き、IJT の会場に入って、吃驚したのが、通常は、どのブースもオープンと言うか?通路から中の様子が見えるみたいな意味ですが、その時のブースには、完全に外部から遮断された個室が作られていて、厳重な警戒の元、社外秘なセミナーが開催された。みたいな事でして、これまた俺の知らない所で、その会社の、ジュエリーCAD プロジェクトみたいなモノに組み込まれていた。みたいな事でして、「何だか?話が大掛かりに成って、来たよ。ね。」とも思いましたが、それ以上に驚いたのが、見た事も会った事も無い人達が、総勢で、50人以上、その会社のブースに俺目当てで押し寄せたみたいな事でして、「何時もブログを拝見して、おります!」みたいなノリで(笑)、さながら会場が、俺のファンの集いみたいに成ってまして、関係者や興味の有る人限定ですが、多分、その時点では、日本で一番に有名な、ジュエリーCAD 使いだったのかな?と思います。。

でね。俺は、彫金教室の主催者。相手さんは、企業さん。みたいな状況で、その会社の傘下に半ば強制的に組み込まれて(笑)、他の企業さんとも付き合いが…、みたいな状況で、こっちも法人に成らないと釣り合わないとの観点から、その年の2月にカズミさんと共同で、株式会社ミシュレイを起業した訳ですが、その時から個人事業主として教室を運営しつつ、会社役員として、会社の経営にも携わりまして、言わば、二束のわらじ状態と成った訳ですが、それは、今も継続しており、その時から12年以上が経過しましたが、ほんと!人の人生って、どう転ぶのか?分からないモンやと、つくづく思います。よ。的な~。。(^^♪

追記:

何かね。こんな風に俺のジュエラーとしての半生を書き出してみると、俺が、とんでも無い幸運の持ち主で、成功者みたいにも見えますが、実際には、がむしゃらに成る、一時的に拡張する。そして、失敗、挫折。みたいな事を繰り返しているだけでして(笑)、今回の話の趣旨とは、異なる部分は、大幅に割愛しておりまして、今現在に至るまで、恐ろしい数のエピソードが存在する訳ですが、成功と失敗と言う概念から言えば、どちらかと言えば、失敗寄りの人間でして、つまり、世の中も人生も、そんなに甘くは、無いと言う事ですね。ええ。。(^^♪

Vol.017

で、企業さんの傘下(※販売協力店)と成ったミシュレイですが、当初の仕事は、ソフトのデモンストレーションやデータの作成に、3DESIGNの販売、指導(社員研修等)でして、そこそこ順調に滑り出したと思った瞬間に、リーマンショックに襲われまして、その影響か?若干、勢いを削がれましたが、当時のジュエリーCAD 界隈は、熱気に溢れてましたが、俺よりも先に着手された人達も当然に存在しましたが、ワークステーション含む、パソコンの、CPU やメモリに記憶容量、高価格が結構ネックに成ってまして、色々とご苦労された。みたいな意味ですが、俺が始めた当初には、それなりな環境が整って、おりまして、その辺り(2005年)が黎明期の始まりだったのでは?と俺は、思います。。

因みに、その熱気の内訳は、「今まで職人が手作業で作っていた原型や一品モノが、熟練の職人の手を借りなくても作れる様に成った!」とか?「CAD をマスターすれば、特別な修行を長年しなくてもジュエリーが作れるぞ!」に、「コレこそが新時代の幕開けだ!21世紀にジュエリーデザインやメイキングの歴史は、大きく塗り替えられるぞ!」みたいな事で、一般の方々は、知らなかったと思えますが、一部の業界関係者のテンションは爆上がりで、また違った関係者のテンションは、だだ下がりみたいな状況で、テンションが上がるのは、理解可能やと思えますが、下がった理由として、「我々の仕事を奪われるのでは?」と危惧したアナログ系の人達の存在でしたが、それ以前に宝飾業界にも産業の空洞化が訪れてまして、最初は、香港、次にタイランド、その後には、中国の経済特区を経由して、今だったらベトナム。みたいな事で、大手が海外に自社工場を持ったり、海外にジュエリーの製造を委託する。みたいな事も多々有りまして、国内の状況は、決して、芳しく無かった訳ですが、それでも利便性やコミュニケーションの問題から、まだまだ国内でもジュエリーが製造されていた訳ですが、デジタル化の波が押し寄せる事により、夢や危機感を持った人達が同時に混在したのが、黎明期だったと俺は、思います。。

だがしかし、モノ事は、そんなに簡単に進まなかった訳で、今まで手作業で作っていた職人や、使ってもイラストレーター止まりのデザイナーにとって、3D CAD の壁は、高くて、何故ならば、本来、CAD と言うモノは、航空産業や自動車に造船系のエンジニア(設計者)が使うソフトな訳で、そんなモンを宝飾業界に投下する事の意味は、どこぞの奥地の原住民にスマホを売りに行くみたいな事でして、基本、当時の宝飾業界で働く人達は、一部の経理や商品管理、デザイナーを別として、パソコンで仕事なんて、したく無い人達の集合体やった訳で、先ずは、CAD とは、なんぞや!?みたいな所からの導入で、しかも着手した人達の中から脱落者が量産された。みたいな事実も有りまして、実際に蓋を開けてみたら、明るい未来処か?やばい現実に一瞬、たじろぎましたが、実は、宝飾業界にも、CAD をマスター出来る人材もおりまして、その人達には、デジタルに対する適正が、元々有った。みたいな意味ですが、逆を返せば、俺やカズミさんみたく、そっち方面に馴染める人達が、音頭を取って、ジュエリーCAD の普及に尽力した訳ですが、提供される側から提供する側に回った事により、水面下のアレな出来事も色々過ぎる位に知る事が可能と成り、「もしかしたら、大変な仕事に着手したのかも?」と思い始めたのも事実ですが、動き出した車輪を、もはや止める訳にも行かず、やがて、それが一種の暴走機関車的に成ったのは、また別の話と、なりまする~。。(^^♪

追記:

でね。もっと若い頃の俺は、よく部下達に、「自分の定規で他人を測るな!」みたいな事を言ってまして、つまり、自分に出来るからと言って、他人にも出来ると思うな。自分に出来ないからと言って、他人も同じだと思うな。みたいな意味ですが、それをすっかり失念して、デジタルの世界に飛び込んだ!みたいな事でして(笑)、つまり、俺やカズミさんが、比較的、簡単にデジタルの世界に入れたから、多分、他にも、そんな人達が、大勢おられると思ってしまった訳で、だがしかし、例えば、CAD に着手して、プロに成れる人の確率って、多分、100人に1人以下でして、始めた当初にも、有る程度の予測は、有りましたが、その予測を大幅に超える定着率の悪さに愕然とした訳ですが、そんな基本中の基本も忘れさせる程に、CAD と言う存在が、魅力的だったのかも?知れません。。(^^♪

Vol.018

で、俺の、IJT 初登場から一年が過ぎまして、当然の様に、また企業さんに召還されまして、と言うか?その時は、展示会ラッシュで、多分、年に六回位の東京出張が有り、IJK でもブースに立った。みたいな年でして、色々な意味で、一番に充実していたのかも?知れませんが、その時の会場には、とある会社さんもブースを構えてまして、其処の社長さんは、元祖ジュエリーCAD みたいな人で、当然に面識も無くて、なんすけど…、結構ね。ブースに立つって、暇な時間が多くて、今回は、セミナーも無く、来客の時だけに呼ばれて、デモみたいな感じで、そんなの一日の1/3位の時間でして、と成って来ると、俺の悪ノリがスタートする訳で(笑)、その元祖のブースに行って、其処の女子社員を、からかって(オイ!)、遊んでいたら奥から元祖が登場して、って、その時の第一印象は、「ちょっとアルカイックで、冷めた目をした御仁やね。。」でしたが、うちの社員に構うな!的な感じで、しかも無理クリ、名刺交換まで、させられて、ちょっとアレな雰囲気に、その場を退散した。みたいな事でした。。

でね。その五月のIJK の直前に、その元祖からメールが来まして、
「私も、IJK に行くから、一緒に飲みましょう!」みたいな事で、なのですが…、その元祖の会社と俺が手伝っている会社は、商売敵みたいな関係で、どうしたモンかと思ったけど、ジュエリーCAD 業界の違う側面を知るには、良い機会だと思って、快諾しましたが、その後に、その元祖(年齢は、俺の一回り上)の勧めも有り、ライノセラスに再度取り組み、その元祖の依頼で、京都の専門学校で非常勤講師として、ライノを、教えたり、って、多分、世間から見たら、俺が自分から元祖に取り入って、何故かは、分からないけど、贔屓にされていると言うか?重用されていると言うか?一種の寵愛的な感じにさえ見えたと思えますが、色々な意味で、今だから話せる本当の真実!って、大げさですが(笑)、実は、その元祖、俺の(ブログの)大大大ファンやったみたいな事で、どれ位のファンかと問えば、俺の書いた記事を全部保存して、CDに焼いていた位で、その後にライノは無償で提供されるし、俺の為に、IJK にブースを構えたり、しまいめに大阪(南船場)に支店まで出そうとしたり、って、つまり、簡単に説明すると、AKB の誰推し!、みたいな事で、その子が総選挙に勝つ為なら、CD 五千枚買っちゃいますよ!的なノリで、大概のリクエストには、答えてくれまして、ある日に、「そろそろ我々も世界最大のジュエリー&ウオッチショーのヴァーゼルにブース構えますかね?」と冗談で言ったら、真剣に検討を始めて、慌てて、無かった事にしたりも有りまして、ほぼストーカー的な(オイ!)ファン心理つーのは、恐ろしいモンですが、コレが事の真相と言う訳ですね。。

なんすけど…、モノ事って、エスカレーションして行くモンで(笑)、その頃から、大企業の、CAD チームの若い女子社員に声を掛けて、「ジュエリーCAD 合コン(なんじゃそれ?)」を頻繁に開催する様に成り(笑)、しまいめには、テレビに出ている様な半ば芸能人の女子まで登場して、その宴席で、俺が関西人特有の話術で、場を沸かせるって、俺は、ジュエリーCAD 使いで有って、芸人じゃねーんだけど、その宴席の最後に元祖が必ず身近な女子を捕まえて、「な、俺の言った通り、面白いヤツだろ?」みたいな確認作業を行ってまして、って、それらは、あくまでも夜の部の話で、日中は、真面目に、ジュエリーCAD の普及活動に取り組んでいた訳ですが、当時の俺のブログの読者さんに、そう言っても、多分、出張や展示会に託けて、遊びまくっている様にしか見えなくて、誰も信じてくれないとは、思いまする~。あはは。。(^^♪

Vol.019

因みにですが…、ジュエリーCAD のプロに求められる能力とは、各々に一応の得意ジャンルが有るにしても、そのジャンル内のどんなデザインにも対応出来る力でして、まあだから成れるのは、100人に1人なんすけど、例えば、自分の作りたいモノ(デザイン)だけを作るプロの作家さんや、それが本業で無いセミプロなら、10人に1人以上が、CAD をモノに出来る訳ですが、例えば、3DESIGN と、ライノセラスを比べると、3DESIGN の方が、習得率が高くて、昔も今も、ライノは、狭き門だと俺は、思います。よ。。

で、熱病にも似たフィーバーな時期の後半に、「結局の所、宝飾業界では、広範囲に分母の数を増やす事が出来ないよね。」と思い(感じ)始めた頃に例の大震災が関東東北を襲った訳で、その規模は最大級で、多大なる影響を与えた。みたいな意味ですが、その瞬間に俺は、「コレで、振り出しに戻った。な。。」と思いまして、何故ならば、神戸と、その周辺と言う地域限定ながら、すでに同じ体験をしていたからで、その震災後のロードマップが当時の俺には、結構透けて見えてまして、なのですが…、当然に被害も甚大でしたが、それ以上に変わるのが人心な訳で、例えば、被害の少なかった首都圏でも、多くの人の中に、「もしかしたら近い将来に自分が直接被害を受けるかも?」的な恐れが芽生えるみたいな事でして、そう成って来ると人間と言う生き物は、刹那的に成ると言うか?もちろん、それらは、精神の水面下で、ですが…、その結果、明日をも知れぬ我が身なら、今の内に出来る(やりたい)事を、しなければ!的、ムーブメントが発生すると言う意味は、時間を掛けて、積み重ねる様な行為に需要が無くなるを指してまして、その結果、序々にですが、ジュエリーCAD 界隈から熱気が無くなり、世の中が、どんどんインスタントに成って行った訳ですが、その頃の俺は、既に未来を予見して、宝飾業界からの撤退の準備を始めてまして、ですが…、その内訳は、それまでは、プロ系の人達にしか教えなかった、ジュエリーCAD を一般の生徒さん達に開放した。みたいな事でしたが、結果的に巨大なグローバル企業が相次いで、ジュエリー的な事業から手を引いたり、それまで先陣を切っていた会社が設備面も含めて、撤退したりも有りまして、我々の存在も宙に浮いた形で、もちろん、それでも継続された会社さんも有りましたが、超大手が撤退すると言う意味は、プロモーションに投下される資金が消失すると言う事で、業界的に興味を継続させたのは、工場を持つメーカーさんや、ブランドさん達と成りまして、それでも、それなりに、CAD を使える人材を確保出来たショップさんや中小企業さんも有りましたが、俺の描いた青写真とは、異なった感じで、俺は、人生に於いて、またしても震災に行く手を阻まれたのだと思います。。

で、震災以後の俺は、東京に呼ばれる事も無くなり、地道に周辺の人達に、ジュエリーCAD をお教えしまして、なのですが…、それって、他に出来る事が無かったのも有りまして、広範囲に、ジュエリーCAD を宝飾業界に普及させる事には、成りませんでしたが、やがて、各種専門学校等でも、ジュエリーCAD が、必須科目と成り、例えば、生徒さんが、100人もおれば、その内の、2~3人は、出来る系の人達もおりまして、そんな人達が毎年量産される様に成った結果、主要な会社や企業さんは、お抱えの、ジュエリーCAD 使いを配下に収めた訳ですが、例えば、報酬と言う面では、かなりの低水準で、会社の中に理解者も少なく、女性の場合は、寿退社も有りまして、何年も掛けて、育った人材が流出するの繰り返しで、結果的に、ミシュレイにも仕事の依頼が継続したって、うちは、二人供が経営者なので、退社する道理が無くて(笑)、つまり常に安定して、データや原型を提供出来ると言うのも強みでしたし、社内の、CAD 使いさんが手に負えないデータが、うちに回って、来たりも有りましたが、ミシュレイの一番の取引先が、様々な事情により廃業されまして、其処からは、どちらかと言えば、インディーズ系の人達の仕事を多く請け負う様に成りました。。

でね。その辺りから起こった主に個人情報やプライバシーに関する出来事は、未だに俺の中でも気持ちの整理が出来て無くて、今も、この先も文章に落とし込む事は、無いと思えますが、バブル期に仕事の山に埋もれるも、やがて、それが弾けて、それでも一念発起して、独立した直後に大震災に冷や水を浴びせかけられ、その後に起業したと思ったら、リーマンショックに、してやられ、「さあ!コレからだ!」のタイミングで、またしても震災に行く手を阻まれて、一応の安定期に入ったと思ったら、様々なアクシデントに見舞われて、更に、コロナで、教室も仕事も停止状態に陥り、俺の人生って、なんなん?とも思いますが、ステイ・アライブ中でして、まだまだ枯れ落ちるには、早いとも思いますので、この先にも色々と有るのかも?知れませんが、まあ、ボチボチと。っす。。

で、時系列系の話は、これ位にして、ですが…、小椋式彫金術に関しては、もう少し書きたい事も有りまして、頭の中が纏まったら続きを書くと思いますので、今しばらくの、お付き合いを、よろしくお願い致します。。(^^♪

Vol.020

ではでは、小椋式彫金術とは?何なのでしょうか?このテキストの途中で、その内容に少し触れましたが、それは、スキルやテクニック、ノウハウの話で、小椋式の本質は、別の所に有りまして、「その本質は、忍者です!」と言ったら冗談に聞こえるかも?知れませんが、戦国時代に活躍したとされる忍者を紐解くと、その現実は、映画やアニメとは、違い。たった一人で、誰にも悟られずに敵地の奥深くまで侵入し、その敵の情報を得て、その情報を味方に伝える為に、絶対に生きて帰る事が主任務だった訳で、アニメみたいに忍者が、ドンパチやらかしたら、直ぐに敵に見つかって、取り囲まれて、終了する訳で、実際には、商人や町民に化けて、地味に活動していたとされて、おります。

で、その忍者と小椋式彫金術の関係性ですが、先ず、モノ作りは、孤独な作業です。何故ならば、例え先輩や仲間に恵まれて、複数の作り手が同じ場所で作業したとしても、実際に作っているのは、その人だけで、誰かが貴方の後ろで、手を操って、助けているなんて、事は、有り得ません。で、それって、俺からしたら単独でエベレストに登頂している感覚で、その場合は、自分の持つスキル(術)と装備だけで、山頂を目指し登頂出来たら生きて帰って来るまでが、登山な訳で、同じように作り手も常に一人で、自分の持つスキルやノウハウを装備品として、一人で作って、一人で完成させるまでが、モノ作りです(※例外も有り)。

でね。俺は、結構な心配性で、生徒さんが教室から巣立った後の事を考える訳で、その人に合った、なるべく多くの装備を持てるだけ持たしたいと考えた訳ですが、時間的、期間的な制約も有りまして、端的に技術を伝授するだけでは、その作り手が途中で、遭難する可能性が高くて、例えば、何らかのトラブルに見舞われた時に、それに対応出来るスキルが無ければ、そこで終わってしまいますので、一つの技術だけじゃ無くて、様々な事に応用の利く融通無碍な術を何時しか?教え始めました。

更に、将来起こりうるで有ろう要所に構える問題に対して、事前に策を授ける。つまり知識として、それらを伝授して、「そう言えば、そんな事、小椋さん、言っていたよ。な。」的に思い返せば、自ずと、その解決法が見えてくるみたいな術(すべ)も教室での会話を通じて、お教えしているつもりで、つまり、小椋式彫金術とは、単に手作りや、ジュエリーCAD を、お教えしているのでは、無く、モノ作り人が独り立ちした後になるべく長く、その活動を継続出来る様に考え出されたシステム体系の相称でして、しかも、それを個人々に合わせて、カスタマイズしておりまして、だからまあ、うちの教室を出てから作家活動をしたり、プロに成ったり、お店を構えた人達も、おりますが、表層から見る限りは、皆さん、それなりの年月を生き抜いて、おられまして、サバイバーとリターナーの二つの要素にモノ作り系の術式を重ね合わせたモノが、小椋式彫金術と言う事でした。よ。では~。。(^^♪

To be continued.

彫金教室エンジェルリングへのリンク

Ogura

神戸市東灘区で、ジュエリーCADと彫金技術全般を、お教えする彫金教室エンジェルリングを主宰し、株式会社ミシュレイのジュエリー制作者としても活動。59歳男性、ジュエリーの世界に足を踏み入れて、結構な年数が経過しましたが未だ現役で頑張っております。よ。。(^^♪